昨日は久々、ほぼ3年ぶりくらいで某会の例会に参加した。ここ二三年、日曜日に出歩くのが億劫になって来たのと、土曜日に出掛ける事が多く、自然とその後始末やら家事に日曜日を費やすことになるのも例会から足が遠のいていた理由のひとつである。幸い、今回は土日月と三連休であったのと、特に外出する予定も無かったので、格好の日程となった。今回の例会は纒向遺跡。数年前、卑弥呼の居館跡かと騒がれた辻地区の発掘現場、や纒向型前方後円墳と呼ばれる箸墓以前に築造されたと思われる古墳、および渋谷向山、櫛山古墳など時期的には邪馬台国からヤマト政権による前方後円墳体制による治世が確立され広がっていく時期のその中心地を坂先生に案内して頂くものである。
予定ではすっきりと目覚めて、入念に準備をして出掛けるハズだったのだが、前夜の飲み会での過飲が祟り、目が覚めたのは出発予定の30分前。頭はボーッとしてるし、体もだるい。最寄り駅の電車の時刻だけは調べてあったので、手早く朝食と準備を済ませ、駅前のコンビニで昼食を買う時間もなくそれに飛び乗り現地へ向かう。二箇所ある乗換駅のうち、どっちで乗り換える事になっていたかを覚えていないという失態に直面するも、それもリカバー、途中のコンビニでオニギリとお茶をゲットしてなんとか集合時刻に現地に到着。しかし、まだなんとなく体も重く、頭もボヤーッとした状態。今日はアルコール抜きの一日になりそうである。
集合場所となっていた、纒向駅前の広場は数年前、前述の辻地区で居館跡が発掘された時の現地説明会に訪れたとき、順番待ちで待たされた場所だった。その時はタダの空き地だと思っていたが、実はここにメクリ1号墳と言う庄内式期の前方後方墳があったとの事。資料に添えられた測量図を見ると、個人的には方形周溝墓の方が近いような気がするが、先生の意見には逆らえない。
その後、東田大塚、矢塚、勝山、石塚など庄内式期から布留式期にかけて築造された纒向型前方後円墳を案内して頂く。また矢塚古墳ではその近くで発見された人工水路、纒向大溝についての説明もあった。この手の遺構は古市にもあるし、他にもあちこちにある。その全体的な規模がはっきりしないとなんとも言えないが、水運用なのか、灌漑用なのか…。発掘された纒向大溝の南溝の延長線上には箸墓古墳があるらしい…。
この辺りでふと気づいたのだが、今まで、例会であちこちの古墳を案内して頂いた時、その築造時期の紹介は暦年代で説明される事が多かったように思う。当然、資料の中には土器や埴輪、武具などによる編年も併記されていることが多いが、説明では「○○世紀頃」などと紹介される場合が殆どだったように思う。ところが、坂先生の説明にはあまり暦年代が出て来ない。
お陰で、弥生から古墳時代中期中葉にかけての超ざっくりした土器編年を再認識するきっかけともなった。と言っても弥生5期、庄内式、布留式が2世紀後半から5世紀頃までに該当する。と言う程度の薄っぺらいものではあるが…。
ま、いずれにせよ、はっきりした根拠の無い絶対年代を用いるより、研究者としてそれなりの結果が出ている相対年代を用いるというのが先生のスタイルなのかも知れない。それを暦年代の何時にリンクさせるかは「みなさんのご判断で」と言う事なのだろう。ある意味、お前ら勉強せえーよとの愛のムチかも知れませんな。
この後、纏向遺跡辻地区、6世紀後半築造珠と推定される城山古墳、上ノ山古墳、ヲカタ塚古墳、櫛山古墳、行灯山古墳、天神山古墳、黒塚古墳と巡り例会は14:00過ぎ頃に終了となりました。数年前、頻繁に例会に参加していた頃は16:00前後の解散が多かった様に記憶しているので、ちょっと物足りない感じもしましたが、この時間帯で終了するなら今後も気軽に参加できそうです。
さて、ここでざっくり一日を振り返ると、ヤマト政権発祥の地とされるこの地域のまさに発生前夜から継体天皇治世の頃までの遺跡、遺構を訪ねた事になります。邪馬台国が何処にあったのか、卑弥呼がどんな人物であったのかは別にして、この地域に集まった人々が、数々のドラマを演じ、その結果として「前方後円墳体制」と言う政治システムを確立し、後の天皇たる国体の基礎を築いて行った訳であります。二日酔いが残るボーッとした頭でフラフラ歩いた山辺の道、もしその時代の人々と時間を共有できたとしたら、どんな風景を見る事が出来たのか、酔いもとっくに醒めた今になってそんな事に思いを馳せておる次第であります。
Body:Olympus E410
Lenz:ZUIKO ED 14-42 F3.5-5.6
iso:400
ap:5.0
ss:1/4000
fl:14mm
eb:0.0
soft:DxO Optics Pro7.2
オマケ
最後に、最近読んだ古墳の築造企画に関する本から一部抜粋しておきます。個人的には上田先生や宮川先生らの古墳の築造企画に接した後、この手の研究はどないなってるのかなとその進展具合が気になっておりました。甘粕先生らの著書も少しは読んだし、基本尺度については新井先生の本も読みましたが、どれも決定打に欠けるような印象が拭えませんでした。ところが、二三ヶ月前ふとした事で沼澤豊氏と言う方を知る事となり、氏の研究論文をまとめた「前方後円墳と帆立貝古墳」を読む機会を得ました。題名からは築造企画に関しての著作とは想像も着きませんが、読んでびっくり。まさに築造企画に関する内容で、「これしかないやろ」との印象を受けました。
沼澤氏はその著書の中で
纒向型墳丘墓と箸墓古墳を比べてみると、前者の平面プランがフリーハンドで描かれたかと見られるのに対し、後者は明らかに定規やコンパスなどの製図器具をしようして描かれていると確信されるほどの違いがある。
この様な墳丘構造を生み出した設計、施工技法は、弥生墳丘墓の技術段階からは自生し得ないものと思われ、先進地域、おそらく中国からの直接的技術支援を得る事によって初めて可能になったものと考える。前方後円墳と言う平面プランは弥生墳丘墓からの漸移的発展の結果であるとしても、墳丘の立体構造とその設計、施工技法は、中国の土木技術の導入によって確率されたものであった可能性が高い。
と、述べておられます。
まさにイノーベーションと言う奴で、この日案内して頂いた纒向遺跡でそれが展開された訳であります。ただ、気になったのが布留式期の築造であると資料で説明されいる東田大塚古墳が纒向型前方後円墳の平面プランを持ってることです。ま、墳丘の下層に布留0式の遺構があることからそう判断されている様ですが、それが布留式でも時期を下る様ならちと厄介な事になるのかと…。