2021年10月17日の日曜日、久し振りに例会に参加した。朝、起きた時には雨が降っていたので欠席するつもりだったのですが午前8時過ぎ頃には雨も上がり、西の空には晴れ間も見えたので急遽出席することにしました。武漢熱や家庭の事情で例会には2年ぶりくらいの参加です。今回は天満橋の北大江公園から四天王寺までの上町台地を歩くコース。予め配布された資料を見るとおおよそ5世紀から始まった大阪湾岸開発の跡を辿る様です。約9kmの行程は最近全然運動不足の私にとって丁度良いかも知れません。[1]大阪湾岸開発と言うのは故水野先生が随分前に講演された時のテーマだったと思います。明るく、元気で楽しい方でした。
集合場所になった北大江公園付近は上町台地の北端に位置し、難波津の推定地とされています。配布された資料によると難波は5世紀の仁徳朝になって歴史に登場する場所でその開発は応神朝時代にさかのぼるとされています。323年に仁徳天皇は治水工事の詔を出し、茨田堤の造営と難波堀江の掘削を、325年には横野堤を築いた様です。北から流れ込む淀川水系の制御と南から流れ込む大和川水系の排水処理を行うことで新田の確保を狙ったのかも知れません。また日本書紀に南門から直線的に堺に至る大道(難波大道)を作ったとあるので難波高津宮もひょっとしたら難波宮跡に前前期難波の宮として存在したのかも知れません。
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そこから最初に訪れた場所は現在のNHKと大阪歴史博物館。ここには以前大阪中央体育館があり新築に伴う発掘調査で5世紀初頭の倉庫群が発見されました。これら倉庫群は法円坂遺跡と呼ばれ、難波津と一体で運用されたものだと思われます。法円坂遺跡は5世紀後半には廃絶されるらしいですが、この時期は大王墓が佐紀から河内へ移動する時期に重なり、法円坂遺跡の廃絶時期は雄略朝から仁賢、武烈朝時代に重なります。そして難波津一体は武烈朝に次ぐ6世紀の継体朝では外交のための施設を備えた地に代わる様です。
5世紀の初めに興り後半には衰退する法円坂遺跡ですが、仁徳朝の始まりとともに勃興し、在位期間が457年から479年の雄略天皇から506年に崩御された武烈天皇の頃に衰退すると言うのは勃興期においては佐紀から河内への墓域の移動に重なり、衰退期においては葛城氏が雄略天皇によって滅ぼされた時期に重なることから政権内の大きな動きと連動したところがあったのかも知れませんね。[4]和邇氏や息長氏の墓域とされてい佐紀に葛城氏出自のイワノヒメの陵とされるヒシアゲ古墳があるのはなんで?
6世紀の継体朝以降、難波津一帯は大陸や半島からの外交団を受け入れる外交施設を伴う地に変貌し行きましたが、その間に、物部守屋が蘇我聖徳太子連合軍?に敗れ仏教が国教となりまる大事件が起こっています。[5]このへんはよく理解してないのですが、我が国の根本が古来から信仰された神道から大陸渡来の仏教に代わりましたと言うことかな。戦いに勝利した聖徳太子は四天王寺を建立し蘇我氏は繁栄を極めますがその専横から645年の大化の改新で宗家は滅亡。この後、皇位についた孝徳天皇は難波に都を移し652年には法円坂遺跡の跡地?一帯に前期難波宮、長柄豊碕宮を築きます。この時期、国外に目をやると660年に百済が滅亡、663年には百済再興の動きの一環として倭と百済復興軍の連合軍は新羅、唐連合軍に敗れます。時の天智天皇は北九州から飛鳥に至る各所に山城などを築き防御を固めました。今の我が国政治家より遥かに国際感覚が鋭敏ですな。良く学べよアンポンタン利権議員さん。
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難波宮跡の南門を出て仁徳朝時代に整備が始まった難波大道跡を少し南へ行くと上町谷窯跡があります。説明があるのかと期待してたのですが何も残ってないのでスルーされました。歩きながら該当する当たりに窯を設ける様な傾斜地があったかなぁ…と思い出してみても思い当たりませんでした。きっと長堀通へ向かって続く下り坂のどこかに在ったのかも知れません。須恵器が生産されていた様なので近辺への供給元だったと思われます。
長堀通を渡り、清水谷高校のグランドを尻目に殺し、その先を東にそれて玉造方面へ向かいます。目指すは三光神社と真田山公園。目当ては昼食ポイントの後者だと思うのですが、オマケで真田の抜け穴を見学しました。とはいうものの実際は弁当を持って来てなかったので三光神社の手前で玉造方面へエスケープし昼食後真田山公園へ合流しました。
昼食後、さらに南へ移動し千日前通、近畿日本鉄道線を越えて向かったのは細工谷遺跡。ちょうどバルバナ病院の前です。ここも特に何もありませんでしたが百済王の子孫が人質として滞在していたらしいです。660年の百済滅亡後は官人としてここを本拠地として暮らしその後奈良時代後半に河内交野に移住した様です。また、出土遺物から付近に百済尼寺が存在したことが明らかになり、南東方向へ500メートルほど離れたところに存在したと思われる百済寺とセットで造営された様です。[7] … Continue reading
この後は摂津国分寺跡を経て四天王寺へ至り解散となったのですが。時系列にそって脇見をしながら楽しくあるく事ができました。そのため触れなかったのですが難波宮は前期と後期の二度にわたり都がおかれています。一度目は孝徳朝から天武朝に至る時期、二度目は聖武天皇の時期です。聖武天皇は744年に新たに建設された難波宮へ遷都しています。前期難波の宮は掘立柱の日本風建屋でしたが、後記のそれらは礎石を持った瓦葺き建築でした。また、細工谷遺跡では金属加工遺物に交じり枝銭なども出土したらしいです。付近には官営や私営の鋳銭工房の存在が想定されているらしいですが「銭」と言う視点から妄想を膨らますのも楽しいかと思います。[8]ガンガン鋳造してデフレ対策やぁ…ってことは無いやろな。
ま、今回はこんなとこで。乙でした。
脚注
えらい距離歩きましたなあ〜
たまにチェックしてたんですが、
常世の国にでもお出かけしてるのかと…..
おひさです。お金ないので近所をぶらぶら狸のドきん〇まです。