多聞山城跡

五輪塔

久秀以前、以降・・・

当方が所属している某団体の例会で奈良を訪れた。例会での訪問先は、所属団体が奈良県内にあるだけに、ほとんど奈良なんやけど、いつもは古墳などを訪れる事が多いので中心部からは離れたところがメインになる。辺鄙なところになると、行くのも帰るのも、電車の本数が少ないとか、無人改札やったりとか、都会人?にとってはなんか新鮮で、小旅行にでも来たような雰囲気に浸れることもある。

しかし、今日の集合場所はJR奈良駅。例会となると大概200人前後の老人が集まるのでなんとまぁ大胆な集合場所かと・・・笑

Body:Olympus E410
Lenz:ZUIKO ED 14-42 F3.5-5.6
iso:100
ap:5.6
ss:1/100
fl:42mm
eb:+0.3

で、本日のお題は珍しく中世の遺跡?探訪である。引率頂けるO先生は、ご本人も仰っている通り、数少ない「中世を語れる研究員」と言う事で、戦国時代に現在の奈良市内を舞台に行われた松永久秀やら三好三人衆やら筒井順慶などが活躍する戦場の跡を案内して頂いた。

当方も戦国時代は好きで、平蜘蛛の釜を抱いて爆死したとされる松永久秀などもお気に入りの一人である。再三、信長に反抗したから怖くて爆死したのか、信長にこの釜をやれるかぁ!と男の意地で爆死したのかはワカランけど、変わり者なところが大好きである。

で、そんな久秀が築城し、後の天守閣の元となったらしい施設や、多聞櫓の語源となったらしい櫓を設けた多聞山城跡が今日の最終目的地。現在は奈良市立若草中学になっており何の面影も無いが、それもそのはず、久秀に代わって大和の実権を握った筒井氏がここには入城せず、郡山へ入城したため廃城となったため、現代にまで残るようなものは殆ど無いようだ。現在確認できる遺構としては城の東側の堀切が若草中学の校舎とグランドの間と、畏れ多くも、聖武天皇陵と光明皇后陵の間に西側の堀切が確認できる。前者は底が道路となっており解りやすいが、後者は説明が無いとちょっと解り辛いやろね。

廃城の後はお寺になったのか、その墓地となったのか・・・。発掘調査では久秀の時代以降の五輪塔が数多く出土しており ( 中には以前のものもあったらしいが ) 、若草中学の入り口のところに纏めて供養?されていた。

カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です