竹生島と大阪城

宝厳寺 唐門

宝厳寺 唐門

三連休の中日にあたる9月16日、竹生島へ行ってきた。琵琶湖に浮かぶ小島なんですが、延喜式にも載っている都久夫須麻(ツクブスマ)神社や行基さん創建の宝厳寺が鎮座している由緒正しき?島なのであります。奥琵琶湖の水面にポツンと浮かぶその姿はいかにも信仰の対象となりそうな雰囲気に満ちている。今でこそ、観光船に乗れば湖西や湖東から30分ほどで着くが、昔はさぞかし大変やったでしょうな。行基さんの時代にどれほどの規模の伽藍があったか判りませんが、資材運搬だけでも大変やったと思います。かく言う当方も最初にココを訪れたのは湖西からカヌーを漕いでえっちらおっちら来た記憶があります。もう15年以上も前の話ではありますが…。

そんな竹生島と大阪城にどんな関係があるのか?現地のボランティア観光ガイドのおばちゃんに聞いた話しなんですが、観音堂への入り口になっている唐門は安土桃山時代のもので、東山の豊国廟から移設されたもので、その前は大阪城の極楽橋の門だったと言うことであります。豊国廟から移設された事や元々は大阪城にあった事が本当に正しいかどうかは解りませんが、唐門全体を見ると縦に比べて横が大きく感じられること、また、入り口の左右にある長押の彫刻の花が横向きな事などから、竹生島へ移設される前はもっと背が高かったのをこの島の地形に合わせて高さ方向を短く作り直したと想定されるとの事。う~ん、日本古来の建設はなんとエコなんでしょうか?今時のモダンな最新の建築物で移設できる、あるいは移設するほうがコストが安いなどと言うものが存在するのでしょうかね。

しかし、東山の豊国廟にあった唐門がなぜ竹生島で移設されることになったのか?秀吉の遺命に従って秀頼が移設したと言う説もあるようやし、知人やガイドのおばちゃんも言うてたように、家康が豊臣家の財政力を削ぐために命じたと言う意見もあるようだが、前者の場合、そもそも豊国廟って秀吉の死後作られたんやし、そこへの移設については死の直前に秀吉が命じたとしても不自然さは無いが、そこから竹生島への移設と言うことになると、個人的には家康の嫌がらせ説に分があると思うような気がする。

ま、その内容が具体的にどんなものであったか知る由も無いが、緊縮財政の一貫として、新規建築より既存建築の移設を秀頼が選択し、タヌキの嫌がらせに対抗したとすれば少しは溜飲の下がる思いだったのかも知れない。そう言えば、観音堂から都久夫須麻神社の本殿へと続く船廊下も秀吉の御座船を利用して建てたとのことなので、ますますタヌキの嫌がら説が有力かも?。いずれにせよ、文化財と言うのはそれの纏わる歴史と照らし合わせて見ることで興味の尽きないものでありますな。

話は変わるが、大阪城の極楽橋は修理工事か何かしていた記憶があります。大阪府も大阪市も大赤字で財体的な余裕は全く無いとは思いますが、本来の極楽橋の姿を伺う事ができるようなものでも作ってくれたらなぁ…と思います。まぁ、橋元くんはその辺にたいするセンスが皆無やからムリやろうとは思いますが。苦笑

Body:Olympus E5
Lenz:ZUIKO ED 12-60 SWD F2.8-4.0
iso:200
ap:4.5
ss:1/800
fl:12mm
eb:0.0
soft:DxO Optics Pro7.2

カテゴリー: 写真, 歴史 パーマリンク

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