姫路三部作 その弐

後円部墳頂からの眺め

後円部墳頂からの眺め。W端18mmが生きてるな(^_^)

ちゅうことで今日は丁瓢塚古墳。これ「よろひさごつかこふん」と読むのだと思います。塚が「つか」なのか「づか」なのかは良く解りませんが…。(^_^)。

ちょっとした事がきっかけで、古墳に興味を覚え、居住地が「河内王朝の奥津城」から程遠くないところにあることから、大和、河内の大王墓を中心に散策と写真撮影、本当は暇つぶし、のためにウロウロしております。時には、遠方へ出かけたりもしましたが、最近はちょっとご無沙汰です。

さて、昨日のブログの冒頭で「以前から興味のあった古墳」と書いたが、何故興味があったのかと言うと「卑弥呼の墓」との説がある奈良県天理市の箸墓の相似墳であると聞いたことがあるから。確か高槻市か茨木市に弁天山A1号墳と言う古墳があり、それも箸墓の相似墳だったらしいが、とっくの昔に開発でその姿を消している。他にも探せば相似墳はあるのだろうが、、現時点では当方が知っているのが丁瓢塚古墳と言う訳である。

ま、普通の人には「それがどないやねん」と言う事になるんやろうけど、物好きにとっては、墳頂に立って、立ち入る事の出来ない箸墓の墳頂からの眺めを妄想したりするのも目的の一つやったりして…。高嶺の花のアノ娘の代わりに…などと言う好き物の発想?と同じ事なのかも知れない。と言うことでここから先は普通の人には関係ないネタが続く…。

知っての通り、箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われるくらいあって、それが築造されたのは弥生時代から古墳時代に移り変わる3世紀半ば、西暦240~280年頃と言われている。お隣の中国では三国志の頃になるのかな?曹操が活躍してた頃かも知れません。この時代以降、日本は古墳時代と呼ばれる機関が300~400年近く続きます。歴史上の区分に「古墳」などと言う人類の建築物?の呼称が冠せられているのはこの時代だけでしょう。それくらい他に何も無かったと言うか、古墳と言う建築物が果たした役割が非常に大きい時代だったと解釈された結果だと思っています。

その幕開けともなった箸墓古墳は200m越す墳丘規模を持っており、これだけの規模の土木工事を行う事が出来た背景にはそこに埋葬された人物にそれなりの政治力やら資金力があったと言う事は容易に想像が付きます。その政治力やら資金力がどんなものであったかと言う話は置いといて、それだけの力を持った人物が埋葬された古墳との相似墳と言う事ですから、両者には何らかの関係と言うか係わりがあったと考えても大きな差支えは無いと思っています。

どうですか?イロイロと妄想が膨らんで来ませんか。このへんが物好きが物好きと言われる所以なんでしょうな。次回、姫路三部作その参は意外なところで見つけた大王の棺の巻きです。

Body:Nikon D610
Lenz:AF-S NIKKOR 18-35 F3.5-4.5G
iso:100
ap:6.3
ss:1/500
fl:18mm
eb:0.0
soft:DxO Optics Pro9.0


現地案内板にあった丁瓢塚古墳の墳丘測量図。こちらは箸墓の墳丘測量図。並べてみると似ている様な似ていない様な…。こうしてみると、個人的には箸墓へ到る前の段階にあるような気もします。より、弥生墳丘墓に近い、楯築の弥生墳丘墓の両端にある方形部のうち、片側が無くなり、もう片側が巨大化した様な…。岸本直文先生が1988年にここを調査した結果を論文として発表されているようでして、そのマイクロフィルムが国会図書館にあるようです。その複写を手に入れるべくこれから手続きしてみます。何か解ったら続編でも書くかな?

20140211に続編もどきをこちらにアップしました。内容的にココで書いた事と矛盾するように受け取れますが、ひとつの説でありますからご理解の程を。(^_^)

前方部墳頂から後円部を望む
後円部墳頂で見つけた埴輪片。奥の黒いのは違います。手前のもちゃうかったりして。(・_・)
後円部周囲の側溝では子供がエビか何かを採集中。まだまだ自然がいっぱいなんですなぁ…。
前方部右隅からの全景

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