姫路三部作 その参

露出した長持形石棺

後円部墳頂から前方部を望む。長持形石棺が露出している。

三部作のトリは壇上山古墳(だんじょうざんこふんと読むらしい)だんじょうざんと入力して変換したら「弾正算」と変換されたところがニクイ。当方の大好きな松永弾正久秀に通じるところがあるのかも…。ま、余計な話はおいといて、現地の案内板によると5世紀半ばの築造で墳丘長は143m、県下2位の規模をほこり、古市にある中津姫陵の1/2スケールの相似墳らしい。姫路市と高砂市の境、市川と天川が接近した辺りの天川沿いの比高地に築造されている。近くには播磨国分寺跡があったり、黒田官兵衛の居城であった御着城跡もある。きっと古来より陸路、海路、河川交通の要衝の地だったのかも知れない。

また、直ぐ北側には第三古墳と呼ばれる方墳の山の越古墳がある。そちらの案内板によると、被葬者は壇上山古墳に埋葬された首長の次の世代の首長だと言うことであるが、一代で大王墓クラスの墳丘規模を持つ中津姫陵の相似墳の築造が許される立場から方墳しか築造できない立場にまで格下げとなったのは、何か大失敗でもやらかしたのであろうか。中津姫陵が築造されたのは百舌鳥古市古墳群に築造された最初の大王墓候補の津堂城山に次いで二基目だったと記憶しているが、その後は石津丘ミサンザイ、誉田御廟山、大仙、市野山と続き、ちょうど倭の五王の直前、あるいは讃に該当する大王の時期にあたる。

その直前には奈良南東部から佐紀の地へ大王墓クラスの古墳が築造される時期があったので、タイムラグを考えるとそのあたりで時流に乗り遅れるとか、付く人物を間違えるとかの政治的な失敗があったのかも知れない。ただ、墳丘形状やその規模においてはランクが下がっているが、石棺に関しては大王の石棺と呼ばれる竜山石製の長持形石棺が採用されている。竜山石はこの辺りで産出するだけに、特別に使用を許されたのかも知れないし、政権内部で竜山石の産出や加工、流通に関する職務を担当しており、なんらかの特権のようなものがあったのかも知れない。

ただ、どちらの古墳で見られる石棺、特に蓋の部分であるが、大仙古墳の前方部から出てきたとされるものや、室の大墓で発見されたもの、久津川車塚(やったと思う)などで発見されたものにくべると、簡素な作りになっていることや、その大きさが少し小さいように思えるのだが、そのへんで「大王の石棺」と呼ばれる一般的?な長持形石棺との差を持たせているのかも知れない。

三部作のトリを飾った壇上山古墳であるが、丁瓢塚を訪ねた時、案内板に書かれた壇上山古墳表示を見た、同行の知人の「行って見ましょう」との提案で訪れる事にしたのだが、露出した長持形石棺を見れるとは思わなかった。また、方墳の山の越古墳でも露出した長持形石棺が見れるとは…。特に、方墳に長持形石棺が用いられていると言うのはちょっと愕きでした。機会があったら偉い先生にでもその背景を聞いてみたいと思います。

ちゅうことで、姫路三部作は今回で終了。この後の帰路でたまたま御着城跡を発見し、廟所を見学できたりとなかなか充実した姫路探訪でした。D610も流石ニコンのフルサイズと言う実力を見せてくれたし、得るものは大きかったと思います。

Body:Nikon D610
Lenz:AF-S NIKKOR 18-35 F3.5-4.5G
iso:180
ap:6.3
ss:1/20
fl:18mm
eb:0.0
soft:DxO Optics Pro9.0


後円部に露出した長持形石棺の蓋部。この場に立った時なんとなく松丘山古墳を思い出した。

石室の天井石か?ただ、前方部の墳頂部周囲は石垣で囲まれている部分があったので社か何かが過去に祭られていた可能性があるので、石室の蓋である可能性は低いやろなぁ…。敷石か何かとして、後円部の石室の天井石が転用された可能性の方が高いでしょう。

壇上山古墳の前方部北東角から後円部を撮った一枚。周壕はもう少し深かったんでしょうね。こちらは<前方部端部、こちらの方が周壕の雰囲気は解りやすいですね。

山の越古墳の墳頂部。むこうの森が壇上山古墳。山の越古墳の長持形石棺別の角度から撮った山の越古墳。

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