弥生時代の家族の形

天岩戸伝説はこんなところにもある。

天岩戸伝説はこんなところにもある。山岳信仰に関係有る社だったかも?

昨日は、久しぶりに橿原考古学研究所付属博物館主催の研究講座を聞きに行った。たぶん2年ぶりくらいだと思う。最近は、少なくともここ一年くらい、友史会の例会にもほとんど参加出来てない。ちゅうことは歴史から少し離れていることになる。(>_<)

釣りも写真も宴会も歴史も滝見も全部こなしたいのは言うまでも無いのだが、歳を取るとなかなか土日続けて出かけるというのも体に応えるし、なんと言っても財政に応える。もちろん家事もイロイロせんとあかんし、こと今年に限って言えばケガで入院してたし、なんと行っても天候と言う人類の英知ではなんともしがたいものがある。o(^-^)o

そんな訳で、しばらく足が遠のいていた畝傍御陵前へ絶好の好天、講堂で講演を聞くのに天気など関係ないけど、ついでにカメラ散歩でもしたかったので…、と言うこともあり出かけた次第である。

今、博物館では弥生時代の墓 -死者の世界- と題する春季特別展を開催しており、その内容に沿った講演を会期中に数回に渡り研究講座として開催している。その第二回「方形周溝墓研究の今」を聴講してきた。講演は二つあって、ひとつは「方形周溝墓から見た畿内弥生社会」と言う「ざっくり系」と、「大阪市加美Y1・2号墳丘墓の調査成果から」と言う「精緻系」の二本立て。内容的にはなかなかエエ組み合わせでございます。

で、個人的に今日の話のキモは、異論もあるらしいのですが、加美Y1墳丘墓は所謂共同体の共同墓地のようなものでは無く、個人、あるいは個人とその血縁者の墓であり、墳丘にはテラス的な部分や、堤状の土手も認められ古墳へと受け継がれる遺伝子を持った墳丘墓であると言う部分がひとつ。もうひとつは、従来より、墳丘上にゲタの歯状に設けられた埋葬施設は夫婦が埋葬されたものだと言われていたが、最近の研究では、兄弟などの血縁ではないのかとの説が有力になっていると言う話。現代では入り婿と言うのもあるが、基本は嫁入りで、当人が無くなった時は嫁ぎ先の人として嫁ぎ先の先祖伝来の墓地へ埋葬される。ところが弥生時代の婚姻は嫁に行くのか婿に行くのかはケースバイケースで、嫁いだ嫁、あるいは婿が亡くなると、その実家の墓へ埋葬されたのでは無いかと言う事。

そう考えると、佐紀古墳群が「大王の后の墓である」と言われるのも、各々の古墳に埋葬されたとされる后達の出自とされる豪族とその豪族がばんきょした地域と「佐紀」と言う地域に整合性を欠く人物も存在するが、あながち「作り話やろ」とする事も出来無いと感じた。

加美Y1墳丘墓が後の前方後円墳の原型になったと言うひとつの結論に至るにはもっと他の切り口からも考察が必要だと思う。ただ、4世紀末から5世紀に掛けて河内平野に次々に大型の前方後円墳が築造されること、また古墳時代の初期においても和泉ではあるが、摩湯山古墳など200m級の古墳が存在するなど、それなりの経済力を持った豪族が存在したことを表している。当然、これらの祖先となる人物も大阪湾岸には存在していた訳で河内湖南岸のデルタ地帯にも大和政権設立に関して大きな影響力を与えた勢力が存在していてもおかしくは無いと思う。

最後に感じたのは弥生時代もちょっと勉強しとかんとアカンなぁ…と言う事。個々の知見が個々のままなので立体的に掴む事ができまへん。(>_<)

写真は講演とは何の関係も無い天岩戸神社。
天香久山の南山麓に鎮座されています。御神体は拝殿裏の竹林にある4つの巨岩。ぱっと見、横穴式前方後円墳の開口部にも見えます。神様がこの岩に降りてくると言う依代で最も原始的なカミ信仰のひとつでしょうな。広瀬和雄先生の「ピー」を思い出したが、そう言う点においては弥生時代と関係あるのかも知れませんな…(^-^)

Body:Nikon D610
Lenz:AF-S NIKKOR 18-35 F3.5-4.5G
iso:100
ap:4.0
ss:1/800
fl:25mm
eb:0.1
soft:DxO Optics Pro9.0

カテゴリー: 歴史 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です